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  中嶋だけの、中嶋ならではの屋台を築き上げたいという思いを込めて、屋台完成までの軌跡を追ってきたこのページは,地区内の一部の方でのみ閲覧していただいておりましたが,2012年の例大祭も無事終える事が出来ましたので,これを機会に全ての皆さまへ公開させていただきます.こんなことしょったんかと,お目通しいただけましたら幸いです.

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2012/10/09

新旧肩並べて


 写真の上での話ですが,新旧2台の屋台が肩を並べました.ほぼ実物どおりの比較になっていると思います.

 新しくなった屋台.屋根の広がりが大きく,市松模様がよ〜く見えます.

 こうしたかった...へへ..

追記) 2015-10-29
 2つ目の写真は、「安政4年に西脇市黒田庄町喜多村が購入した屋台を明治22年に山南町谷川が購入した屋台ですね。」(記:まささん)だそうです。

 うちの四代目屋台の水切りについて、棟梁が、「昔はこんな形やったんや。」と言われたのは、この時代の水切りだったのかも。

2012/09/27

訂正 狭間の場面


 狭間の位置順位について訂正します.

 1位が正面(東とすれば)  国生みの場面
 2位が裏正面(西)     天岩屋戸の変
 3位が左脇(北)      八俣大蛇退治
 4位が右脇(南)      因幡の白兎

 この位置になります.

2012/09/17

狭間の場面の説明文 4


4.裏正面の場面

 オオクニヌシノミコトの因幡(いなば)の白兎

 スサノオノミコトは櫛稲田姫の他にも妻神が多くいまして,オオトシノカミ(大年の神)は,スサノオノミコトとオオヤマツミノカミの娘のカムオオイチヒメの間にできた神様ということです.そして,スサノオノミコトの子や孫になる神様から続いていって,アメノフユキヌノカミとサシクニワカヒメという神の間に,オオグニヌシノミコトが生まれます.オオグニヌシノミコトにはオオナムジノミコト,アシハラシコオノミコト,ヤチホコノミコト,ウツシクニタマノミコトという五つの名前を持っていました.
 オオグニヌシノミコトにはたくさんの兄神がいるわけですが,その兄神達は,その国をオオグニヌシノミコトにさずけて,自分たちはその美しさが評判の因幡の国のヤガミヒメにひかれて,ヤガミヒメに結婚をもとめて,その国を訪ねていきました.その時に,兄神の荷物は全てオオクニヌシノミコトが担がされて,兄神達に遅れてついて行ったのでした.
 兄神達が気多の岬にたどり着いた時,皮を剥がれて真っ赤なはだをさらけ出したうさぎが泣いていました.その様子を見た兄神達は,海の潮水につかって,岩場の上で日光を浴びて寝ていれば治ると,うそを教えて立ち去りました.言われたとおりに潮水につかったうさぎが岩場の上で日の光を浴びていると,たちまちに潮がかたまり,うさぎのはだがひび割れて赤くただれてしまいました.ますます痛みが増し,こらえきれずに泣いているうさぎのそばを,オオグニヌシノミコトが通りかかります.そして事情を尋ねました.
 うさぎは,そもそも皮をはがれたわけから話し出しました.
 おきの島(隠岐島)で暮らしていたうさぎは,因幡の国へ渡りたくて,ワニザメ(サメのこと)をだまして,仲間の数比べをしようと,おきの島と気多の岬の間に,ワニザメを並べさせました.そして,おきの島からワニザメの数を数えるふりをして気多の岬へとわたってきたのですが,最後になってワニザメはだまされていることも知らずにばかなやつだと笑ってしまって,最後のワニザメにつかまってしまい,身の皮をはぎとられてしまったのだと話しました.さらに,皮をはがれて泣いていると,通りかかった神々に潮水につかって日に照らされよと教えられて,教えられたとおりにして,ますます赤ただれたからだになったことも話しました.
 その話を聞いたオオグニヌシノミコトは,うさぎに河口の真水につかって肌をきれいに洗い,ガマの穂の花粉をまき散らした上でそっと休んでいれば,もとの白い毛の兎に戻れると教えました.
 言われたとおりにしたうさぎは,もとの白いきれいな毛が生えた体に戻りました.そしてオオグニヌシノミコトに言いました.たくさんの神々がいらっしゃいましたが,あの方たちはヤガミヒメとは結婚できません.大きな袋を担がされておられるあなたこそがヤガミヒメにはふさわしい方ですよと伝えました.

このオオグニヌシノミコトと白兎を描いたのが,裏正面の狭間の場面です.



2012/09/17

狭間の場面の説明文 3


3.右脇の場面(正面に向かって左側,幕わいの上)

 スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治

 神の国を追放されたスサノオノミコトは,いずも(出雲)の国のひの河(肥河)の川上に降り立ちました.そのひの河に箸が流れてくるのを見て,このさらに川上に人が住んでいると思い,川を上って行きました.すると,年老いた夫婦が娘を挟んで泣いていました.おじいさんをアシナヅチ,おばあさんをテナヅチと言い,娘をクシナダヒメ(櫛稲田姫)と言いました.アシナヅチが言うには,元々娘は八人いましたが,この川の上流の高い山に住むヤマタノオロチ(八俣大蛇)に,毎年食われてしまい,このクシナダヒメ一人になっていることを話しました.そして,今年もまた娘を食いにオロチがやってくる時が来たので,悲しくて泣いていると伝えました.するとスサノオノミコトは,もしこの娘を私の妻にくれるならば,そのオロチを退治して,この娘を助けてやろうと言いだしました.最初はアシナヅチも心配していましたが,スサノオノミコトがアマテラスオオミカミの弟であって,神の国からこの地へ降り立ったところだと説明したことで,アシナヅチも安心しました.そして,娘のクシナダヒメを助けてくれるなら,その娘を嫁としてスサノオノミコトへ差し上げますと約束しました.

 右脇の狭間には,ここから後のヤマタノオロチ退治の場面が描かれています.

 スサノオノミコトはクシナダヒメを櫛に変えて自分の髪にさして隠しました.そして,家の周りに大きな垣根をはりめぐらし,八つの入口を作って,その入り口ごとに大きな酒おけを置き,その酒おけに何回も蒸留して,濃ゆく濃ゆくした酒をいっぱいに注ぐように,アシナヅチに伝えました.
 アシナヅチが言われたとおりに垣根と酒を注いだ酒おけを用意して待っていると,本当にヤマタノオロチがあらわれました.胴体が一つに八つの首と八つのしっぽを持ち,ほおづきのように赤い眼をして,胴体にはかずらやスギやヒノキが生え,額からは常に赤い血がにじんでいるようなおとろしいオロチです.オロチは八つの頭それぞれに垣根の入口から首をしのばせ,酒おけにそれぞれ首をつっ込んで,酒を飲み干しました.そして,眠ってしまいました.その眠っているすきに,スサノオノミコトがオロチを,持っていたトツカの剣で,ずったずたに切りきざみました.その血がひの河に流れて,川は真っ赤に血に染まりました.オロチのしっぽを切りきざんでいるときに,持っていたトツカの剣の刃がこぼれました.そこに何かあると思い,刃のこぼれた剣の先でその辺りをさらに切り広げると,中から立派な大太刀が出て来ました.不思議に思ってその太刀をアマテラスオオミカミへ献上すると,その太刀は草薙(くさなぎ)の剣であることがわかりました.
 スサノオノミコトは,クシナダヒメとともに暮らすための場所をいずも(出雲)で探し,この地はすがすがしい場所だとそこで暮らすことに決められました.後にこの地をスガ(須賀)と呼ぶようになります.そして,その地の空雲を見上げて歌を詠まれました.

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

 スサノオミコトは,そこにアシナヅチを読んでお宮の主としてつくように命じました.そしてアシナヅチに,イナダノミヤヌシスガノヤツミミノカミという神の名を与えました.




2012/09/17

狭間の場面の説明文 2


2.左脇の場面(正面に向かって右側)

 アマテラスオオミカミの天岩屋戸の変(あまのいわやどのへん)

 イザナギノオオカミ(伊邪那岐大神,ミコトから格が上がっている)から,アマテラスオオミカミは神々の暮らす国をまとめるために働きなさいと命令を受けます.ツクヨミノミコトは夜の世界のために働きなさいと命令を受けます.そしてスサノオノミコトは海のために働きなさいと命令を受けました.
 しかしスサノオノミコトは,母に会いに行ってネノカタスクニ(死の国)で母とくらしたいと,山の草木や田や川の水まで全部すい上げて自分のなみだに変えるほどに泣きわめいて,イザナギノオオカミの命令を聞きませんでした.それでとうとうスサノオノミコトは今の世の中から追い出されることになってしまいます.スサノオノミコトは,母の国へ行く前に,姉であるアマテラスオオミカミにあいさつをしに行きました.その時のいきおいがあまりに大きかったので,地鳴りがして国じゅうに地震が起きたほどでした.そのいきおいにおどろいたアマテラスオオミカミは,スサノオノミコトが自分の支配する国を攻めてきたのだとかんちがいして,ありったけの矢をせおって,弓をかまえて地面を踏み固めてかまえて待ちました.そして何しに来たのかをスサノオノミコトにたずねました.
スサノオノミコトがこの世を追いだされてネノカタスクニへ行くことになったことを知らせに来ましたと話しましたが,アマテラスオオミカミはまだうたがっていて,スサノオノミコトに,天上界を攻めてきたのではないということを証明しなさいと言って,どのようにして証明するかをたずねました.スサノオノミコトはウケイ(誓約)をして証明しましょうと言いました.ウケイとは,お互いの持ち物から神様を生んだ時に,男の神様が生まれればだまそうとしたり,うたがったりする心があり,女の神様が生まれればうそのない正しい心があらわれていると言う占いのようなものです.
 最初にアマテラスオオミカミがスサノオノミコトの持つ剣を三つに折ったのちに,きれいな水ですすいで
口にふくみかみくだきました.そして,きりのようにふっと吹き出したときに,女の神様ばかりが生まれました.
 次にスサノオノミコトがアマテラスオオミカミの石の飾りがたくさんついた首かざりをとって,きれいな水ですすいだ後に口にふくんでかみくだき,きりのように吹き出したところ,男の神様ばかりが生まれました.
 アマテラスオオミカミは,スサノオの持ち物から女の神様が生まれたので,スサノオには自分をだまそうという心がないことを知って,天上界に入ることを許しました.このことにちょうしにのってしまったスサノオノミコトは,天上界でやりたいほうだいにいたずらをして,まわりを困らせましたが,アマテラスオオミカミは何か考えがあっての事だろうと全てお許しになりました.それでますます調子にのってしまったスサノオノミコトは,神様が天上行き来するときに使う馬の皮をはぎとって殺してしまって,天上界の神々の衣の生地を織る女神のはたおり小屋に投げ入れました.おどろいた女神ははた織り機に体をぶつけて死んでしまいます.このわるふざけにはアマテラスオオミカミも怒りをしずめることができなくなってしまって,入口を大きな岩でふさいだ岩屋に隠れてしまわれました.

 左脇の狭間に描かれているのは,この後の話です.

 日の神が隠れてしまわれたので,世の中は真っ暗闇です.閉じこもったまま長い長い間出てこられません.人々の暮らしの中では,変な伝染病も流行るようになっていました.このままでは国がなくなってしまいます.それで,ありとあらゆる神様達が集まって,どうすればアマテラスオオミカミを外へ出させることができるのか相談しました.
 まず,トコヨの国(常世の国)のナガナキドリ(長鳴き鳥)を集めて一斉に鳴かせます.
 鏡を用意して,アマテラスオオミカミが顔をのぞかせたときに映し出して,別の日の神がいるような勘違いをするように準備をします.別の日の神に見えるようにサカキ(賢木という木)に首飾りや衣のような白と青の布地をかけ,フトダマノミコトが神聖なものとしてかかげ待ちました.
 そして,アメノコヤネノミコトがノリト(祝詞)をとなえ,アマノタジカラオノミコト(天手力男神)が岩屋の戸口に隠れました.
 みんなの準備が整うと,アメノウズメノミコトが踊り子のかっこうで,逆さに置いた桶を踏みならしながらおっぱいやおしりも見えかくれしそうなほど激しく踊りはじめました.それを見た全ての神々が広々とした天上界いっぱいにひびきわたるほどの笑い声をあげました.
 アマテラスオオミカミは不思議に思い,岩戸をわずかに開けて,アメノウズメノミコトに聞きました.
「私がここにこもっているので,世の中全てが真っ暗闇のはずではないですか.どうしてみんなはそんなに笑っているのです.」
アメノウズメノミコトが答えました.
「あなた様よりもりっぱな神様が出てこられましたので,みんなで笑ってうたっております.」
この間に,アメノコヤネノミコトとフトダマオノミコトが鏡を差しだして,アマテラスオオミカミを映し出し,別の神様が本当にいるかのように思わせました.アマテラスオオミカミが鏡とは知らずにその別の神様を,岩戸から身をのり出してのぞきこもうとした時に,戸口にいたタジカラオノミコトがアマテラスオオミカミのうでをつかんで,岩戸の外へと引きずり出しました.同時にフトダマオノミコトがアマテラスオオミカミの後ろの岩戸の前にしめなわをはって,このなわから内へ戻ってはなりませんと言いました.
 こうして,アマテラスオオミカミが戻られて,天上界も人々の暮らす地上も太陽が照り明るい世に戻りました.そこに集まったありとあらゆる神様が相談して,このできごとの原因となったスサノオノミコトに対して,罪を償うための品々をたくさん出させたほか,ひげと手足の爪とを切って身を清めさせて,神の国から追放しました.

2012/09/17

狭間の場面の説明文 1


はじめに

 科学的な今の時代において,当然神話は作り話ですので,どの話をとっても正しいわけではありません.でも,むかしの人たちが,どのようにしてこの世が生まれたのかを,思い浮かべて言い伝えたのが神話の数々です.人間の力ではとても作ることができなくて,自然のすごく大きな力に驚いたり,誰も自然を自分一人の物にすることができないことも感じたりしながら,この世の中が,どのようにして生まれたのかを,教えてくれています.
 そのような昔からの言い伝えをもとに書かれた本に,古事記というものがあります.今年は,その古事記が書かれてから,ちょうど1300年の節目の年になります.この年に,田尻の熊野神社や,この中島の與位神社に奉ってある神様についての言い伝えを,新しくできた屋台の狭間に,入れることができました.ひょっとしたら,誰かの耳には先祖の声が届いたのかもしれませんね.


1.正面の場面

 イザナギノミコトとイザナミノミコトの「国生み」の場面

 まだこの世の中に,大きな土地も海もなかった時のこと.
 宇宙の真ん中にいて,色々な物を作りだそうとしているえらい神様達が,イザナギノミコト(伊邪那岐神)という男の神様とイザナミノミコト(伊邪那美神)という女の神様の夫婦の神様に,この国をつくるように命令しました.その時はまだ国の名前はありません.
 命令を受けたイザナギノミコトとイザナミノミコトの夫婦の神様は,アマノウキハシ(天浮橋)と言って,神様の国からこの国の方へとのびて浮いている橋に立って,アマノヌボコ(天沼矛)と言う大きな槍のようなほこ(矛)と言うもので,橋の下の雲のすき間から見える,土地でもない海でもないそれらがまじりあったドロドロとしたコントン(混沌)と呼ばれるところを,ぐるぐるっとかきまぜて少し持ち上げました.すると,アマノヌボコの先からしずくが落ちて,そのしずくの落ちたところに小さな土地がもり上がり,オノコロジマ(淤能碁呂島)と言う小さな島ができました.

 屋台の正面の狭間に飾られているのが,このコントンをかきまぜて,オノコロジマをつくっているところです.

 オノコロジマが出来上がったあと,夫婦の神様はこの島におりて,大きな柱を立てて,大きくりっぱな家をつくり,この国のもととなった,最初に八つの,その後にあと六つの,ぜんぶで十四の島からなるこの国を,イザナミノミコトから生み終えました.

 国を生み終えた後に,土や水や山や川や風や海や食べ物やとたくさんの神様も生んで,人々が暮らせるように準備しました.そして,最後に火の神様を生む時に,大きなやけどをおってしまったイザナミノミコトが死んでしまいます.

 イザナミノミコトが死んで,悲しい思いになったイザナギノミコトは,死の国からイザナミノミコトを連れて帰ろうと,死の国へ行きました.そしてイザナミノミコトにもっとこの国をよくするために一緒に帰ろうとさそいました.さそわれたイザナミノミコトは,死の国の神様に帰ってもいいかと尋ねてくるから,自分が戻るまで待っていて,決してこの死の国の大きなゴテン(御殿)の中を覗かないようにと,約束してその暗いゴテンの中へと戻って行きました.
なかなかイザナミノミコトが戻ってこなかったので,イザナギノミコトが頭のくしの歯を一本折って火をつけて,中を照らしながらそのゴテンの中へと入って行きました.そこにいたのは,死者となって顔もからだも変わってしまっていたイザナミノミコトの死の国の姿でした.あまりの姿に驚いたイザナギノミコトはゴテンをとび出しました.
 もといた世の中へとあわててにげて戻って行くイザナギノミコトを,死の国のめしつかいたちが追いかけて来ますが,なんとか振り払います.さらに死の国神様たちがおいかけてきますが,そばになっていた桃の実3個を投げつけると退散してしまいました.最後にイザナミノミコトが追いかけて来ましたが,死の国と生きているものの国の境目に大きな岩をおいて,イザナミノミコトとは完全に別れることになりました.

 イザナギノミコトは,自分の心の弱さのために,なんともきたならしいところへいってしまったものだと,その汚れを全身からすべて洗い流して,清らかな体に戻すために,川に潜って体中を洗い流しました.
その時に,もっと今の世の中がよく見えるようにと,左目を洗ったときの滴から,アマテラスオオミカミ(天照大御神)という女の神様が生まれました.右目を洗ったときにツクヨミノミコト(月読命)という時を数える神様が生まれました.そして匂いもなくなるようにと鼻を洗ったときにタケハヤスサノオノミコト(建速須佐之男命)という男神が生まれました.


2012/09/16

布団屋根の弓 part2


 この後に,白い布地をさらに重ねます...訂正です.電飾担当から指摘をいただきました.既に布地が貼られている状態で,完成状態です.しわが1っ個もありません.驚いた驚いた.

 ここが一番の個性が出るところですね.

 これで,全体のプロポーションが整っていれば,新生男中島屋台になると思うのですが,いかがでしょうか?.

2012/09/16

布団屋根の弓


 四角く,歪んでいた布団屋根ですが,今年作り替えていただきました.

 まるみや,角の直線性は出ているようです.

2012/09/16

狭間箱も用意されていました


 気になっていた狭間箱ですが,ちゃんと用意されていました.

 狭間は何度か見ていただいたとおりですが,正面の国土創生(国生み)の場面と,右脇(正面から向かって左)に入る八俣大蛇退治だけ,再掲載しておきます.

2012/09/16

垂木金具


 最上段が龍.
 二段目が獅子.
 地垂木には鷹(鶴ではありませんでした.すいません.).

 龍と獅子は,二種類が向かい合わせに入っているのは,わかりますでしょうか.

 

2012/09/16

軒下駄の渡りから斗組にかけて



 

2012/09/16

梵天金具 part3


 龍の顔つき,いかがでしょう.

2012/09/15

水切り金具 part2


 続報写真を送ってもらいました.

 ご苦労様です.

 中島屋台は「白い屋台」というイメージからすると,ちょっと黒く見えてしまう印象のようにも見えますが,完全な男屋台として,落ち着いた感じの屋台になりそうに思います.
 

2012/09/15

梵天金具 part2


 脇の獅子梵天は,こんな風になっていました.

 昨年のような緑と青の彩色ではないようです.

2012/09/15

梵天金具 part1


 龍梵天はこんなふうに変わります.

 3枚目は天井です.金箔が押されていました.

2012/09/15

水切り金具


 午後から,松浦さんが,笹原建設の工場で,金具の取り付けにかかると言うので,電飾担当他数名で,同行させてもらったようです.

 私は諸般の事情で,同行できませんでした.

 で,電飾担当から送られてきた写真がこちらです.

2012/09/15

高欄男柱の龍


 阿吽の龍で,上からと下からにらみ合ってるのは,下書きでも見て認識していたのですが(1枚目),もう一対が,クロスに交わって,あっち向きとこっち向きの2匹の龍になっていました(2枚目).

 正面向かって左手に2枚目の龍を入れて,幕わいの方から見たときに,斜め下向きの龍が,幕わいを挟んで向かい合ってる状態に配置します.

 そして,正面向かって右手に1枚目の龍を入れます.

 裏正面は,向かって右手が2枚目で左手が1枚目のりゅうが取り付けられます.

 幕わいの裏(蔵の中の東脇方向)から見たときに,男柱の両外側で,阿吽の龍が左右に見られる形になります.

 2枚目の写真,うまくクロスしているように見えますか?.

2012/09/10

さすが!,恐れ入りました part2


 1枚目が右脇(向かって左,西,宮入で拝殿に向かう)の,スサノオとクシナダヒメの八俣大蛇(やまたのおろち)退治の場面.この二柱の神々とミチノナガチハの神を合わせた三柱が,現在の與位神社のご祭神です.

 2枚目が裏正面(北)の,オオクニヌシノミコトの因幡の白兎の場面です.

2012/09/10

さすが!,恐れ入りました



 電飾兼CG担当さんから,金物打ちの進捗状況の写真に,狭間の写真を重ねた写真が送られてきました.

 さすが. まめやねぇ.

 もうちょっと金具は増えますが,だいたいこんな感じで.ええ感じ?.

 個性強い屋台になってきました.

 1枚目が正面(南に基準をとれば)の,イザナギとイザナミによる国土創生の場面.

 2枚目が左脇(向かって右,東)の,天の岩屋戸の変の場面.

2012/09/09

布団の弓の進捗


 今,昨年も布張りをしてもらったところで,白の布地貼りに出ています.

 どうでしょう?.

 まだ下から見上げられないからなぁ.本番の見た目と,若干違うかも.

2012/09/07

金具の様子 part2


 垂木の端は,上から菊,左三つ巴,二引き

 小物は,上から
  龍(右向き,左向き交互)
  獅子
  鶴


 天井の格子もカシューが塗られていました.

 天井に金箔を押してもらえるよう,松浦に依頼されているとのことでした.

2012/09/07

金具の様子


 今日の夕刻,笹原建設の白浜を覗いてきました.

 白浜駅を降りて,ジョギング中に棟梁の車とすれ違い,こちらの気付いてくださって,Uターンして鍵を開けてくださいました.

 棟梁も忙しそうだったので3分ほどで帰ってきましたが.次来る前に電話してきてと言われました.

 裏返しにして金物を打っています.月曜日に松浦さんところから4人こられて,作業された分だそうです.次また,月曜日あたりかな?.

 井筒と四本柱がええ朱色になってます.

 3枚目は写真をさかさまにしてみました.

 垂木の間に金箔が押されていないので,ちょっと黒く見えますね.

 斗組の皿斗の曲線部(肘木の上の渕)にも金箔が押されるともっと明るい斗組に見えるかもと思うのですが,白黒のままの方がきれいでしょうか?.

2012/09/02

錺金具の製作中 part2


 脇梵天の獅子の顔つき.

 のっぺりした細工が,手を加えられて,すこしいかつく凸凹が多くなっています.

 彩色も,赤が控えめになり,複数色で飾られています.

2012/09/02

錺金具の製作中


 7月に,松浦さんの工房を見学させてもらった時の写真で,私が撮っていなかった部分を,電飾担当から送ってもらいました.

 高欄男柱の龍の胴体部分は,もう少し膨らみを付けてほしいと,要望して帰ってきましたが,はてさて,いかがなものが出来上がっている事やら.

 羽物は龍以外に鷲もありました.

2012/09/01

間もなく金具打ち開始


 今日笹原さんとこの妻鹿の作業場を覗くと,何も残っていませんでした.ありゃ???.

 白浜の作業場かと思い,移動中に松原神社へ立ち寄ったところ,神輿合わせの三基の神輿が拝殿に据えられていました.

 老若男女を問わず,ちょこちょこ,ちょこちょこ,普段着姿でお参りに来る人がいてはるのは,非常に感心.

 道草食ってばかりいられないので,移動しようと道に出ると,棟梁の車にすれ違いました.電話して聞くと「今から用があってでかけるから,白浜の作業場しめて帰ってきたとこや.」と言われ,作業場拝見は断念しました.まぁ勝手に行ったもんやし,しゃあないな.電話の時に,「明日か,明後日辺りから京都から来て,金物打つのが始まるわ.」と言われていました.また日を改めて,覗きに行ってみたいと思います.

 その帰り,白浜から姫路駅まで歩きました.

 北原辺りで,鳥居から本殿まで距離のありそうな神社を見かけました.まぁ,うちほどじゃないですが.ひょっとして,格式高い神社かと思い覗いてみました.

 八幡神社のようですが,拝殿の龍の顔つきが,飾磨彫独特.裏へ回ると,飾磨 堤義法作の文字がありました.

2012/08/17

布団屋根の進捗状況


 写真を撮って来たんですけどねぇ...

 帰りに道草食って,東多田の専光寺にある山門の龍を写真に撮ってるときに,メモリーエラーになって,データの読み取りが今,できない状況なのです.

 トホホ...

狭間は.既に笹原さんのところへ納品されているそうです.持って帰ってくれと言われてましたが,わが家のちっちゃい車には積みきれないので遠慮しました.

早めに納めてもらって,公民館あたりで,みなさんにじっくり見てもらうのはいかがでしょうね.

3段目が乗る頃に写真だけ撮り直して来ます.

添付の写真は,専光寺の山門の龍です.二代目 松本義広の作品.ごっつい龍です.また見に行ってみてください.

2012/07/21

松浦金具 訪問 part5


 垂木の金具です.

 鶴,龍,獅子が付きます.

 垂木の端の部分は,菊,三つ巴,二引きです.

 3つ目の写真は,井筒の上の渕に飾られる七宝模様です.


 他にも,高欄の男柱の龍も製作中でしたが,頭部はいいのですが,胴体が見るに忍びないものでしたので,写真掲載は控えさせていただきます.

 こう直してほしいと言う要望は入れておきました.

2012/07/21

松浦金具 訪問 part4


 梵天の龍です.

 頭部が立体的になりました.

 せっかく立体的になったのに,梵天同士向き合い過ぎていて,下から顔つきが見えにくいので,前向きに首をひねってもらえるようにお願いしてきました.

2012/07/21

松浦金具 訪問 part3


 脇梵天の獅子です.

 鬣が増え,目や爪の彩色も変わっていました.

 さらにこれに,牡丹の花をあしらってもらう予定です.

2012/07/21

松浦金具 訪問 part2


 水切りの羽物となる飛龍の金具です.

 各隅に,2匹1対の4対が龍が出来上がっていました.実際の屋根に飾って,角度の微調整が必要です.

2012/07/21

松浦金具 訪問 part1


 予定通り,錺金具の進捗状況を確認するために,宇治の松浦さんの工房を尋ねました.

 京都の金具屋ならば播州からの発注は少なく,同じものが重なることも少ないだろうと言っていたのに,やけに播州地方の仕事を多く請け負っておられるようでした.

 2枚目は高欄の金具.

 3枚目は水切りの金具です.

2012/07/10

金具屋訪問



 2012-7-21(土) 10:00a.m. お宮さん出発.

 錺金具の工房を訪ねます.

 自分の目で作業風景や,製作中の出来栄えを確認しときたいと言う方は,出発時刻までに,お宮さんへお集まりください.

2012/07/01

姫路ええやん 技・職人展 その2


 「八俣の大蛇退治」と「因幡の白兔」の場面です.

 よく見ると,彫師の銘に,小河さんだけではなくお弟子さんの木三郎さんの名前も連名になっています.これから三代目へ託される二代目さんの思いの表れかと思います.

 神話に関しては,その後の想像が膨らんで,ますますおもしろい世界にのめり込んでいる自分がいます.

 熊野大社と言えば,出雲の祖神を奉る神社で,出雲大社(杵築大社)よりも上位に位置づけられます.

 そこを大和神話であるイザナミを奉る神社としたという点で,大和の国土統一に対して出雲へ脅威を感じると同時に,これからは大和が支配者で,出雲は陰側の立場であることを,他の勢力へ知らしめる事で,国土統一を成し遂げた事のようにも想像されます.

 あとはこの狭間の飾りつけの配置が,出雲の末裔の中島にとっては意義があることかと思います.

2012/07/01

姫路ええやん 技・職人展 その1


 昨日と本日の2日間にわたって,タイトルの展示会,実演会が,姫路文学館で開催されています.

 どうやら昨日の実演コーナーには,たつのの二代目小河義保さんがいらっしゃったようで,電飾担当から写真を送っていただきました.神戸新聞にも記事が出ていましたので,明日には神戸新聞のホームページにも掲載されるでしょう.
 ちなみに,本日は別の方のようです.

 言っておきますけど,会場内は写真撮影禁止です.あくまで,うちの狭間を飾っていると言うことで,彫師さんのご配慮により撮らせていただいたものです.
 言い換えれば,屋台お披露目前に公開されたことになるのですが,まぁ細かいことはええですかぁ.

 「国土創生の場面」と「天の岩屋戸の変」です.

 3枚目は,2枚目の写真の裏側です.奥狭間,中狭間,前狭間,そして付狭間の重なりがよくわかります.

2012/06/02

金具の位置合わせ part3


 井筒通りには,退治物の金具を,今準備してもらっています.

 丸軒(軒下駄)の渡りの金具ですが,下地に唐草の透かし彫りを入れておいて,丸軒の間には牡丹の花を入れ,渡りには向かい合った鳳凰を配置してもらうように依頼しています.

 この写真の鳳凰よりも,首や足がもっと飛び出すような感じでと,お願いしています.

 高欄男柱の龍は絡み合う2匹の龍で依頼していますが,「下絵通りに,男柱と同じぐらいのぶっとい,ごっついのんにしてよな.ほそーいのんはあかんでな.」と念押ししたところ,首をひねられてしまいました.ちょっと不安.半信半疑.

 今回の屋台,高覧掛けの図柄もそうですし,狭間もそうですが,どういう場面がえがかれているのかが,非常に分かりやすい出来栄えになっていることは,共通して言えることのように思います.

 そういう意味で,他にはないオリジナルな屋台に仕上がることが期待されます.

 ところで,完成式はなしでええですよね.

 古の建築物では,完成するとあとは傷んでいくだけと言うことで,どこか1か所に不完全なところを置いて,完成させずに長持ちさせることへの配慮がなされています.長持ちさせることと,今年で完成ではなく,この先何年もかけて徐々に作り上げていく屋台ですから,昨年の新調式で一区切りで,今年は例年通りの祭の中で,狭間が入ったなぁ,金もんがついたなぁと,祝っていきましょう.

2012/06/02

金具の位置合わせ part2


 前回,水切りの段差の渕に金具がないのがおかしいのではと,美匠さんにもメールを入れていたのですが,上段は水切り正面のように雲の彫り物(写真1枚目)を並べ,中断は,下段の水切り金具の下地金具にする銀色の板で覆い,下段は茅負の下地金具にする金色で覆う予定です.

 丸く大きく渕を折り返せないのかと言ったのですが,既に製作が進んでおり,そこは勘弁してほしいと言われました.

 斗組の肘木にかぶせる金具が出来上がっていました.単純な菱形ではなく,わずかですが花型に抜かれています.

 写真3枚目の龍は細かくてええでしょう.これはうちの屋台につくもんやないらしいです.

2012/06/02

金具の位置合わせ


 金具の製作元の松浦さんが来られて,製作中の金具の大きさを合わせられました.

 色々注文つけましたが,ご本人とお会いすると,非常に丁寧に,まじめに応対してくださるので,希望は希望として伝えるとして,自分でも判断に困るような細かいところは,任せてもいいかと思えました.

 丁寧に対応してくださっています.

 今度6月末か7月初旬の土曜日で,工房を訪問する日程を調整します.参加希望の方はその辺りの予定を確保しておいてください.

 井筒の金具は七宝の透かし彫りになる予定です.今日は試作品がなかったのですが,縁蔓の渕に入る物も七宝だったので,その写真を掲載します.これと全く同じではありません.

 垂木の端は,上から菊花,三つ巴,二引きとなります.垂木の下面には,上から龍,獅子,鳥が入る予定です.龍はちょっとこったものになるそうです.ここに龍が入るのは珍しいように思います.

2012/05/19

金具サンプル part2


 屋根の出来上がりイメージはこちら.

 http://www37.tok2.com/home/kamome/kose/kose_kanamono.html

 恵比寿宮神社 小瀬屋台の金具です.同じ製作元です.水切り,昇総才の金具の厚みが,今回の出来栄えに同じような感じかと思います.

 平らな部分を打ち抜いて,同じ模様のものを2枚重ねにしてもらったぐらいの厚みで,ちょうどええぐらいになるんちゃうかな.


 垂木と高欄です.ここいらも薄いなぁ.

 高欄男柱の龍は,ちゃんと龍になっとるんやろな.
 

2012/05/19

金具サンプル


 下絵に続き,水切り,垂木,高欄の金具のメッキ前のものが届きました.

 本音で言います.

 薄っぺらい!.下書きの時に心配したまんまのことが起きてる.これはひどい.

 美匠に2度メールしてたんですが.

 これはわたしは納得できんなぁ.

 黒塗りで落書きしてる部分まで金具が廻り込んで,塗りの黒い部分が,むき出しになることはないんやろな.

 オリジナリティー出すのは賛成やけど,今までの屋台より細工が雑いのはオリジナリティーちゃうやろう.

 すこぶる機嫌が悪い.

2012/04/22

水切りの図案


 3月3日にもらっていた,水切りの図案のまま,透かし彫りを入れて欲しいところを,赤色に着色してみました.

 やはり,1個1個のパーツが大振なので,金具がなくなってしまいそうになります.これ,透かし彫りにしなかったら,銀色にベターっとなるだけやと思います.もっと緻密な細工を入れてもらう必要があるように思います.

 ところで,中断に波,下段に竹・梅で,松が立体的に重ねられるわけですが,水は一番下にあるのが定番であるように思います.水より陸のほうが上.

 もし竹・梅を下段に置くのであれば,中断は松にして,水切り三段の下の垂木との間にある茅負に波型を入れるべきかと思います.

 そうか,一般的な構図になる,中断に竹・梅,下段に波と,順番を入れ替えてもらったほうがいいのではないでしょうか?.

 一応,親方には,古くからの慣わしに照らし合わせても今回の図案でいいものなのか,入れ替えが間に合うものなのか,連絡を入れておきました.

 それにしても,下段に重ねるものが必要です.小鳥はやっぱりいただけません.

 水に多いのは龍.

 竹・梅を入れるのであれば,人物ものなどを入れるのも手かと思います.


2012/04/14

今年も白木で出すかぁ!


 男柱のところの2匹の龍の絡み具合がわかりやすくなるように,金と銀に色分けしてもらいました.

 そしたら,狭間の入った白木屋台の写真もいっしょに届きました.提灯も大きくなってますよね,これ.

 細かい透かしが入った水切り,井筒通り,丸軒渡りの金具が,今年の秋までに間に合いそうにないのなら,今年も白木のまんまで出してみたいところです.

 なかなかええやん.

2012/04/14

金具の打ち合わせ


@ 水切り
 水切りは,前回提示の下絵において,北条屋台に見られる透かし彫りを入れてもらうことを要望すると言うことになっています.

A 垂木
 かぶせ金具は,前回提示のもので,3段とも銀で統一する.

 垂木下面の小物には,鶴,獅子,虎,龍,海老でサンプルをもらい,三段別々のものを取り付ける.

 垂木の端は,左三つ巴,二引き,左三つ巴の三段の予定だが,地垂木の左三つ巴については,なにか別のものがあれば,サンプル提示してもらう.

B 軒桁
 正面・裏正面に唐獅子牡丹
 両脇に竹に虎

 軒下駄の間には,獅子や虎を追加して入れる.

C隅木
 彫り物が入ったいるので,基本的には金具で覆うことはしない方向だが,カシュー塗りで真っ黒になって目立つので,唐草の透かしなどで覆った方がいいのではないだろうか?.

D 斗組・隅肘木
 金色のメッシュで覆う

E 斗組・肘木
 銀色のメッシュで覆う

 D,Eのメッシュ形状は,業者任せにしたと言う親方の見解.

F 井筒通り
 退治物にする

 候補としては,

 源頼政     鵺退治
 坂田金時    鯉退治(熊退治でもいいが)
 加藤清正    虎退治
 隠岐次郎左衛門 怪鳥退治

 など.

 見栄えによっては,軒下駄渡りと井筒通りの題材を入れ替えることは,検討課題であろう.

G 井筒端

 正面は左三つ巴と二引きのまま残す.

 両脇と下面に入れるものとして,サンプル提示してもらう.

H 男柱

 龍2匹が巻きつく構図で了承.
 男柱並みのぶっとい龍になることを念押し必要.
 (下絵参照,CG担当が色つけしてくれました.)

2012/04/08

せめてこのぐらい...は,贅沢か? part4


 金具を入れるか,なくてもいいか,ちょっとはっきりしないのが,井筒通と軒桁(丸軒)の金具.

 うちの屋台は軒桁の厚みが薄いので,同じような暑さの軒桁だと,打ち抜きのかなぐだけとか,飾りのないプレーとだけという屋台もあった.金具をつけずに,軒桁に彫り物をしている屋台もあるが,ここは厚みがある.

 軒桁には,カササギか鳳凰のようなものや,花の打ち抜きなどが飾られているようだ.鯉が並んでいるものもあった.

 井筒通りでは,唐獅子牡丹があったように思う.あとは安芸の宮島の風景とか,退治物(九尾の狐退治)もあった.

 と言うことで,私の提案は,

 軒桁には,正面,裏正面に唐獅子牡丹.両脇に竹に虎と言うのはどうだろうか.

 井筒通りには,前にも書いたとおり,

 源頼政     鵺退治
 坂田金時    鯉退治(熊退治でもいいが)
 加藤清正    虎退治
 隠岐次郎左衛門 怪鳥退治

を提案したいところ.いかがでしょう?.

2012/04/08

せめてこのぐらい...は,贅沢か? part3


 松浦金具からもらった下絵のイメージに,比較的近いかなと思い撮ってきたのが,西高室屋台です.

 わたし,北条節句祭の屋台の中では,この屋台が一押しなんですが,まぁ好みの問題もありますので...

 唐獅子は,例の金具の「コシ」の部分まで,細工が入っている.

2012/04/08

せめてこのぐらい...は,贅沢か? part2


 こちらは,その昔,長目地区にあったという市村屋台.小型だが,非常にプロポーションがいい.

 その市村屋台の水切り金具が非常に魅力的である.

2012/04/08

せめてこのぐらい...は,贅沢か?


 北条節句祭の屋台と言えば,非常に細工の細かい彫り物や金具が多い.刺繍も細やか.今の時代にこれを実現するには,一体いくらかかることやら.

 でも,このぐらいの金具をつけたいなぁ...

 二代目屋台と同時期の屋台ではないかと言われる,黒駒屋台の水切りから肘木のようすです.

2012/04/07

国土創世(国生み)


 狭間の正面の場面

 この科学的な時代において,当然神話は作り話であるので,どの説をとっても正しいわけではない.しかし,古の人たちが,どのようにしてこの世が生まれたのかを,自分たちでは到底コントロールできない自然の猛威の偉大さに尊敬の念を抱きながら,自然の前では人の力などちっぽけなものであり,なん人足りともそれを征服することができないことを念頭におきながら,この世の生い立ちを説明しているのが,古事記や日本書紀である(日本書記の方が大和族による国家統一のための政治的な色が濃いので,古事記の方がとっつきやすい).

 その中でも宇宙規模の自然に相当する,天之御中主神(あまのみなかのぬしのみこと)を初めとする造化三神(ぞうかさんしん)の三柱と別天津神(ことあまつかみ)の二柱が生まれる.この時,宇宙の創造について説明がつかなかったためか,この国土を治めるためにはあまり重要でなかったためか,この五柱の神々に対しては,あまりその後も記述がなされていない.その後,神代七代(かみよななよ)とよばれる無性別の二柱の神と,五組の男女神の十柱が生まれる.その合計十七柱の神々の中の,十六番目と十七番目の男女神が,狭間の正面に刻まれる伊邪那岐神(いざなぎのみこと)と伊邪那美神(いざなみのみこと)の二神である.

 伊邪那岐神と伊邪那美神は,別天津神の命を受け,国土創世(こくどそうせい)に取り組む.

 天浮橋(あまのうきはし)に立ち,別天津神から授かった天沼矛(あまのぬぼこ)を天空の雲間から差し下ろし,まだ陸とも海とも区別がつかない混沌(こんとん)をかき混ぜる.狭間の場面はまさにこの混沌をかき混ぜようとしているところである.混沌をかき混ぜた天沼矛の先端から滴り落ちた滴の所に,淤能碁呂島(おのころじま)ができあがる(海水をかき混ぜて垂れた滴から塩分が降り積もる様子をとらえて出来上がった話ではないかと考えられている).

 その淤能碁呂島に降り立ち,天御柱(あまのみはしら)を立て八尋殿(やひろどの)を造り,伊邪那岐神と伊邪那美神が国生み,神生みに取り組むことになる.

 天御柱のまわりを,伊邪那岐神が左からまわり,伊邪那美神が右からまわって,出会ったところで交り合う.この時,出会ったときに最初に声をかけたのが伊邪那美神の女神であったが,その時に生まれた子は蛭子(ひるこ)であったので,伊邪那岐神と伊邪那美神はこの蛭子を葦舟に入れて流してしまう.二度目もやはり伊邪那美神から声をかけたところ,同じように淡島(あわしま)が生まれたので,これも国としては数えられるものではない.
(この時に流した蛭子が,のちに成長して浜に流れ着いて,蛭子神=えびす神として奉られる).

 別天津神に原因を乞い,占ってもらうと,女神の方から声をかけたのが良くないとされ(このことから,プロポーズは男からするものになっているのかも),再び天御柱にもどって,同じように伊邪那岐神が左から,伊邪那美神が右から柱を回り,出会ったところで,今度は伊邪那岐神から声をかける.

伊邪那岐
「あなたの体はどのようにできていますか」
伊邪那美
「私の体には、成長して、成長していないところ(女陰のことを示す)が1ヶ所あります」
伊邪那岐
「私の体には、成長して、成長し過ぎたところ(男根のことを示す)が1ヶ所あります。そこで、この私の成長し過ぎたところで、あなたの成長していないところを刺して塞いで、国土を生みたいと思います。生むのはどうですか。」

 こうして,伊邪那岐神と伊邪那美神が交り合い,八つの島,大八島(おおやしま)を生む.

1.淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
2.伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
 愛比売(えひめ):伊予国
 飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
 大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)
 建依別(たけよりわけ):土佐国
3.隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
 別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
4.筑紫島(つくしのしま):九州
 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
 白日別(しらひわけ):筑紫国
 豊日別(とよひわけ):豊国
 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
 建日別(たけひわけ):熊曽国
5.伊伎島(いきのしま):壱岐島
 別名は天比登都柱(あめひとつばしら)
6.津島(つしま):対馬
 別名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
7.佐度島(さどのしま):佐渡島
8.大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州

 その後さらに小さな6島を生む.

1.吉備児島(きびのこじま):児島半島
 別名は建日方別(たけひかたわけ)
2.小豆島(あづきじま):小豆島
 別名は大野手比売(おほのでひめ)
3.大島(おほしま):周防大島
 別名は大多麻流別(おほたまるわけ)
4.女島(ひめじま):姫島
 別名は天一根(あめひとつね)
5.知訶島(ちかのしま):五島列島
 別名は天之忍男(あめのおしを)
6.両児島(ふたごのしま):男女群島
 別名は天両屋(あめふたや)

 こうして,伊邪那岐神と伊邪那美神により国生み(国土創世)がなされたと言う.

2012/03/24

狭間の進捗状況 part4


 師匠の作業風景です.

 物腰の柔らかい,威張ったところのない,やさしいおじいちゃんです.

 初めて行くと,海軍時代の話が必ず出てきます.

 へへ;

2012/03/24

狭間の進捗状況 part3


 幕間の上に入るのが,與位神社ご祭神を題材にした,スサノオとクシナダヒメの,八俣の大蛇退治の場面です.

 そして裏が因幡の白兎.

 この2面は,出雲的神話の題材としても有名ですねぇ.

2012/03/24

狭間の進捗状況 part2


 天の岩屋戸の変では,本来の天照大神よりも,前で踊る天のウズメノ命が主役っぽくなっています.

 この場面を彫った今までの狭間では,2枚目の写真のように直立しているものが多いのですが,今回は,腰をくねらせ,衣をひるがえして踊っている動きのある場面になっています.

 これは師匠もご自慢の一つ.

2012/03/24

狭間の進捗状況


 本日電飾&CG担当から,狭間の進捗状況を確認させてもらったと,写真を送ってくれました.

 だいぶ形になってきました.

 天の浮橋で,イザナギの命とイザナミの命が,天のヌ矛を雲間から下ろそうとしているシーンです.

 この世の創生の図です.

 1枚目は奥,中,前の3枚の狭間を重ねた図で,2枚目はさらにその上に小物が重なっています.これだけ重ねて,1面の狭間が出来上がります.

2012/03/11

井筒通と軒下駄の金具場面


 うちの飾りで,あまりないのが退治ものなので,井筒通りには,退治ものであしらってもらってはどうでしょう?.

 源頼政     鵺退治
 坂田金時    鯉退治
 加藤清正    虎退治
 隠岐次郎左衛門 怪鳥退治

 そして,軒下駄が薄く出来上がっているので,わかりづらいところもあるので,神獣などをあしらってもらうのがいいのではないでしょうか?.
 あるいは四神や,四美人を入れてもらうと言うのもええかも.

 四 神:朱雀・玄武・青龍・白虎
 四美人:櫛稲田姫,ハヤサスラヒメ,弁財天,お夏狐

 川裾さんの四柱と言うのはちょっと神さんばっかり奉り過ぎやし,祓い戸の大神四柱やから,ちょっと難しいなぁ,やっぱり.


2012/03/03

小河さんです


 師匠の二代目小河義保さんはこんな方です.

2012/03/03

狭間の製作現場確認 PART2


 その他の場面です.

 因幡の白兎
 八俣の大蛇退治

 そして,今回の中でも彫師さん一押しの場面である天のうき橋からの国生みの場面です.

2012/03/03

狭間の製作現場確認


 龍野の小河さんの工房をお訪ねしました.

 かなり進んでいて,同時注文された須加の方が後回しになっているようでした.

 1枚目が奥狭間.
 2枚目が中狭間.
 その上にさらにパーツで彫り物を重ねていきます.

 これは,天の岩戸の場面です.アマノウズメ命が腰をくねらせて踊っている様子が,他の狭間にもない構図やと,師匠のご自慢の絵柄です.

2012/03/03

飾り金具の打合せ part2


 1枚目.高欄のところを,こうしてくれと作図して渡したのですが...

 2枚目,3枚目が松浦さんから用意された案です.これはこまぁって,細いわ.

2012/03/03

飾り金具の打合せ


 飾り金具の職人さんに公民館まで来ていただいて,梵天,水切り,高欄の飾り金具を中心に打合せを行いました.一通り打合せて,最後,電飾担当と親分と私が残って,垂木や井筒,井筒通などの金具についても確認を行いました.

 水切りの金具は,黄色の斜線部分が打ち抜かれて,塗り(黒)を施した裏甲と金具の間に金メッキのプレートを差し込んで,その金の地が見えるイメージだということでした.ただ,これも打ちにきと抜かれずに残る部分と,大ぶりの細工になるので,きらびやかさに欠けるので,もっと打ち抜きを小さく,今,抜かれていない波間に隙間を入れるなど細かく細工をしてほしいと伝えました.絵は描き直すと言ってくださいましたが,完全に意図したことが伝わっているかどうか.

 まず梵天ですが,獅子も龍も細工が大ぶりであるので,もっと細かい細工を入れてくれるように依頼しました.そこまで改善されるかは微妙.

 特に,厚みの足りなさに関して,松浦さんが美匠さんから受けた指示内容と,我々の言っている立体的なものという意図が全く違うと言うことは認識していただきました.「腰を大きめに取って欲しい.」と指示を受けたと言うことで,あの梵天の渕の持ち上がりをわざとつけたんやというお話で,そのために全体の厚みとしては,他の獅子梵天と比べてもそん色がないと,今も考えておられるようです.その厚みを生かして,もっと細かな細工を入れて欲しいと言ってあります.

 龍の爪や獅子の爪は,シルバーにする(白っぽく見えるようになる)方向です.

 ちなみに,今回の梵天は,銅の上に漆を塗って金箔を抑え,コーティング膜を塗布してあるとのことでした.

 龍の立体的な頭は,今の頭のパーツ部分(炎のところの首側の渕辺り)から先が付け替えになる予定です.

2012/02/19

歴史博物館の松原屋台 part4


 井筒の金具もびっしり詰まっています.

 うちも,このぐらいの金具は入れましょう.

 井筒端の金具が,写真を引き伸ばせばわかるかなと思って,写真だけ撮ってきたのですが,今一解りかねます.面目ない.

2012/02/19

歴史博物館の松原屋台 part3


 茅負には斜め格子上に金具が入っていますが,屋台本体は金箔が押さえられています.
 垂木の辺りも同様に金箔が抑えられていて,垂木の間には金箔が輝いています(曽根北ノ丁に同じ).三代目中島屋台のように金属の板は入っていません.
 新調西光寺屋台は,この垂木の間の部分も透かし金具が入っているように思います.

 垂木の金具が何かは,ちょっとわかりませんでした.

2012/02/19

歴史博物館の松原屋台 part2


 水切り金具

 羽物の下の金具にも注目.かなりの凹凸がみられて,豪華に見えます.

 薄っぺらな金具ではやっぱあきませんねぇ.

 

2012/02/19

歴史博物館の松原屋台


 担き棒の傷みとかはあるものの,姫路駅の松原屋台よりも,こっちの屋台の方が輝きがあり,豪華に見えるなぁ.

 照明の演出のせいやろか?.

 3月3日に打ち合わせます,金物関係の写真を,参考までに掲載します.

 まずは,高欄親柱の阿吽の龍.
 架木,平桁,地覆の松竹梅にも注目.

2012/02/18

北条節句祭り屋台の変遷


 加西郷土研究会発行の機関誌の第25,26号のに掲載されている,北条節句祭り関連の記事をまとまられた,郷土史研究家の喜谷進一朗氏による講演会が開催されました.

 中島の屋台でも特に思い入れの高い,2代目屋台の事にも触れられた講座となりました.

 新調したばかりの当地区には耳の痛い愚痴もこぼされていますが,屋台の歴史に関する研究報告として,非常に興味深い物でしたので,メモを掲載いたします.

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講師:喜谷進一郎

1.前回続き
●竜王舞
 ○太鼓の音頭取りは,神輿をみてたたく
 ○神輿が総指揮の役割がある
 ○笛は舞いを見てたたく
 ○昭和20年ごろまでは,4回の舞いを奉納していた
●鶏合わせ
 ○闘鶏の名残りか
 ○名古屋スシマ神社も同様
 ○にらみ合わせるだけだが,勝負させている.

2.神社
●その地の氏人を奉っている
 ○その氏人も変遷がある
  ・鎌倉,戦国...
 ○戦が無くなったときに奉ったのが,祖先ではないか
 ○戦国時代にお宮の変化があった
 ○村に神社を守る配役ができ始めた
  ・室町以前の祭の行事が今の神事か
 ○鶏合わせは後発の要素が多い
 ○飾磨の海へ禊に行くところが本来の祭の姿
  ・神を集める
  ・人が集まる
  ・盛り上げる行事が付け加えられる
 ○奉納物,献上物は祭(禊)の余興
●村の力関係(水争い)
 ○祭の威勢の良さ
  ・出し物の競い合い

3.祭の出し物
●神の依り代
●固定
 ○造り物
●移動
 ○屋台,だんじり,船
 ○白馬に神が乗っていることを想定して,馬を奉るところもある
  ・神を意識させるための花飾り
 ○神輿は,高貴な人をかざす傘に,連座を組み合わせたもの
  ・神の依り代(所在の明確化)
○神鳴り
  ・落雷で大きな気に落ちるので,神を一柱,二柱と数える
  ・御幣の木に処するもので,紙垂には神はいない
  ・幟も同じ・・・竿に神が宿る
●山と鉾
 ○山は木がある.火が起きる.
○鉾は水がある.
 ○火と水,陰と陽
●布団屋根
 ○江戸時代には一般庶民に使えないもの
 ○布団は尊い人の象徴
●芝居の出し物
 ○最初は三番叟
  ・神への禊の印
  ・天下泰平,五穀豊穣を祈る踊り
  ・神事であることの印
  ・高浜七年祭
●屋台
 ○節句祭り
 ○明治期から昭和初期には,造り物との混合
 ○太鼓は合図,伴奏の印
 ○ふれ太鼓,より太鼓,起し太鼓,....
  ・太鼓の音の面白さが祭の余興になった
 ○かき棒と太鼓だけの屋台が大阪周辺で多い
●反り屋根布団屋台
 ○平屋根に布団を乗せた簡単なものから
 ○江戸末期に四隅の反り上がりがある
 ○中央の盛り上がりは後からついたもの
●神輿屋根屋台
 ○平屋根の上を布団か木やねかの違いか?
●屋台の豪華絢爛化のおこり
 ○江戸の経済発展期
・元禄時代
・文化文政(1800年代)
・祇園祭もこの時代の起こり
・飛騨高山祭りもこの時期に現状のような豪華なものになってきた
 ○都市部と田舎部の交流の中での,祭の地方拡散
●屋台文化
 ○四国,瀬戸内地域で広まっている
 ○構造は似ているが,細かい違いが現れる
 ○平屋根布団屋台の瀬戸内への広まりと,地方色の混合・共存
●明治10年ごろ
 ○現代の形が出来上がった時代
 ○職人が現れた
  ・江戸時代は大衆の仕事をしていなかった
  ・明治後に大衆へ広まった
  ・明治30年ごろまで
  ・弟子が大正期まで
 ○銘屋台の多くは,明治30年代まで.
  ・中でも,谷(現大門),東高室(二代目中島),小谷(現的場),黒駒屋台は豪華絢爛で人々が見惚れるものであった.
  ・1ランク落ちたもので大正期までくらいか.
  ・昔は弟子も10代半ばから弟子入りして,若くても腕が際立っている
  ・最近は新調するほど質が落ちる・・・今と昔で職人の腕が違う.
  ・旧いものを直せる職人も少ない
  ・新調の方が安くなってきている

4.北条節句祭り
●1800年代からの記録がある
●1818年に福居の屋台の記録として最初となる
 ○現在の福居で最初に屋台が出たとは考え難い
 ○北条はそれ以前から祭があったと考えられる
●屋台分類法
 @技法
 A絵柄
 B形状
●段下村の屋台1826年(まささんの発見)
 ○西脇比延で現存
 ○屋台蔵はない
 ○祭ごとに組直す
●その後の江戸時代の記録がない
●本町の記録(明治12年以降)
 ○屋台購入
 ○大正6年からの祭の記録(永代帳)
  ・交渉の記録まで残っている
●別紙1と2参照
●明治12年の本町屋台購入
 ○伊保中町筋(伊保中部)と交渉,購入
 ○本町屋台に人だかりとなり,横尾がだんじりの曳き紐で屋台を取り囲む事件発生
  ・警察が引き分ける
●北条警察
 ○明治9年北条頓所
 ○明治14年北条警察署
 ○加西と多可を管轄とする
 ○明治16年に加東を吸収
  ・社,小野,天神分署
●明治14年の県社昇格時に大きな祭例があった可能性がある
 ○横尾新調
●明治25年 南町屋台購入
 ○32年 森垣村へ売却
 ○同年 柏尾から購入
●明治27年製造の屋台購入,新調の可能性も 古坂
●明治28年東高室新調 古坂に対する対抗意識
●明治32年西高室新調 東高室への対抗意識
●明治45年 9台の屋台購入
 ○購入元は神崎郡か
 ○小谷は阿弥陀西屋台か
 ○神崎郡の屋台禁止で売却
 ○神崎郡で屋台禁止を通達した警察署長が加西へ異動
  ・北条も禁止の可能性があったが,事前交渉により,規則を守れば禁止しないことの
   確認を得た
●明治33年の中寺の夜学が起源で,屋台禁止の動きがあったのでは
●官公1000年祭で,神崎郡が屋台を製作,購入が盛んになっていた
●日露戦争の国の疲弊
●明治41年の天皇戊申詔書
 ○村での貯蓄計画
 ○夜学隆盛
 ○神崎郡の屋台放棄
●本町250円,栗田150円で屋台購入
●大正4年北条鉄道開通
●大正5年住吉神社改造
●大正6年大歳神社改造
●イベントが重なって,神崎郡から屋台の購入が盛んに行われた
 ○3〜4台の曽根からの購入を除き,他ほとんどは神崎郡からの購入
●この大正期の記録が,新聞記事しかなかった
●大正7年 東高室屋台購入
 ○阿弥陀南池地区から850円
 ○戦時中は経済隆盛
  ・加西河野の別荘の息子は,株で成功し豪遊していたという話も残っている
 ○第一次世界大戦の終了
  ・株への投資から米への投資へ
  ・米価の高騰
  ・農家が隆盛に転化
  ・農村部では神社の復興・屋台購入が盛んに
 ○数百円の屋台が二・三千円で売却される
  ・東高室の850円の屋台も3150円で中島へ売却される.
  ・東高室は町境の裁判費用が必要であったために,豪華屋台ながら売却に応じた.
●明治45年 本町が鶴居から購入
 ○明治22年畑東の狭間箱の文字がある
 ○大正9年に北野へ売却
●曽根から購入で残っている豪華屋台は黒駒のみ.
●昭和3年 本町が長目の屋台購入を断念
 ○金額でまとまらず
●昭和4年 麦本で製作したものを本町が購入
 ○現存
●昭和9年 国民高等学校竣工
 ○現北条高校
 ○東高室の土地を県が購入
 ○土地売却費で金竹から屋台購入
 ○現存
●昭和10年 相模寺境内で屋台展示
●昭和11年 大歳神社落成
○西高室 社下組から屋台購入
 ○市村が長目から屋台購入
  ・本町で折り合いがつかなかった屋台も村の不祥事で,安価に購入.
  ・長目は屋台売却費を青年会が朝鮮での豪遊に使いきったという逸話がある.
  ・改造を繰り返しながら現存
 ○西上野が黒田から購入
●昭和12年の祭り以降日華事変で祭縮小
●昭和13年以降屋台練りの奉納中止
○昭和15年紀元2600年祭のみ屋台練り奉納
 ○昭和17年ごろから飾り金具の供出
  ・谷は太鼓と金具の一部を供出
  ・現行屋台は高欄周りに違和感あり
  ・海老梵天が鯱梵天に変わっている
 ○北条はそれ以外に供出は少ない
 ○神崎郡は金具をかなり供出している
  ・中島の豪華屋台の金具も戦前のものがほとんど見られなくなっていた.
 ○的場屋台は金具の供出なしで,当時のまま現存する
●昭和21年の終戦まで屋台練り中止
●昭和21年,22年の祭は荒れた
 ○死者もでた
 ○朝鮮人との争いや進駐軍との争いも
 ○栗田の南町,東高室と古坂で屋台のぶつけ合いも
 ○宮入は1台ずつと言う規則も生まれるほど
 ○当時は青年70名,村中で100名以上練り子が集まる祭
●昭和26年ごろから台車で曳くようになる
●昭和40年祭が本宮だけになったことがあった
 ○台風があり,栗田が損傷
●昭和42年に市制発足で栗田が購入

5.まとめ
●北条は,購入時期以上に旧い製作時期の屋台を購入してきており,
腕のいい職人が多かった当時の姿のまま現存している.
 ○技術の高い屋台が残っている.
 ○他地区に自慢できる屋台である.
 ○旧い,いいものを残していってほしい.

以上

2012/02/04

金具の下絵の例 2


 高欄の金具の例です.

 平桁,架木,地覆の3段に松竹梅をあしらった場合の例です.

 2枚目は,高覧の下の縁蔓に装着する金具の例で,これは波模様になっています.

2012/02/04

金具の下絵の例 1


 水切り金具と高欄の下絵の例が届きました.

 あくまで,できた後のイメージ用のもので,これがそのまま中島の屋台金具になるわけではありません.

 青い部分が打ち抜かれると言うことです.

 抜けた例が,2枚目の写真です.

 もっとふくらみが大きくなるように打ちだしてもらう必要があるように思います.

 3枚目の写真は,水切りに飾る羽物の例です.

2012/02/04

第33回 屋台新調委員会です


 14:00からスタートしました.

 可能な範囲で,リアルタイムでレポートします.
(WiFiを購入して,こんなことができるようになりました)

 本日の出席は,笹原棟梁と美匠山田さんです.
 彫師さん,金具屋さんはこられていませんでした.

1.狭間の下絵(委員長)
(1) いざなぎ・いざなみの場面が,豪華さに欠けるのでは?.
(2) それ以外は問題ないのでは.
 ・いざなぎ・いざなみのおのころ島の場面は,今回彫師の小河氏が最も力を入れられている部分.
 ・この播磨地方においても,この場面を彫り込んだ狭間は存在しない.
 ・現地で,彫師の説明を聞いて,必要とあれば,細かな要望を提出する.


2.11月2日の申し入れ事項の確認(徹さん)
(1) 布団形状
 ・布団部の総替えをお願いしたい
 ・板での模型と出来上がりイメージのギャップが多い
 ・軽量化も必要
 ・形状のずれ
 ・3段固定せず,1段ずつ分割できるように
 ・屋台を見ながら,布団形状を確認した.
 ・先端部に左右で歪みが見られるところや,先端部の布団のへこみ,四隅の各段での向きの不揃いなど,棟梁に確認してもらい,要望事項について納得してもらった.


(2) 提灯
 ・サイズが小さい
 ・提灯釣り金具の外れ
 ・ねじれないものへ
 ・サイズは,模型で合わす
 ・電飾担当作成の模型で,屋台本体に合わせてみて,昨年の提灯よりも,直径,長さで5cmずつ大きくすることに決定.
 

(3) 高覧掛
 ・厚くする
 ・厚くできると言うことであり,美匠さんに全品持ち帰っていただいた.

(4) 布団の生地
 ・クリーニングしやすいようにひも留めにならないか
 ・伸縮性の生地にならないか(棟梁案)
 ・布団の厚みを変えずに,弓なりにしていくことは難しい(棟梁案).
 ・このため,伸縮性のない,光沢のある原稿の生地では,どうしてもしわがとれないし,タッカー留めするしかない.
 ・光沢なしの伸縮生地であれば,紐留めも可能になるが.
 ・光沢なしもでよいか,村内で調整必要.

(5) 金綱は軽くならないか
 ・確実に,以前の屋台の綱より重い.
 ・片づける人数が増えている.
 ・現状の中では,軽いタイプを採用している.芯材も軽いものを選んでいるのだが(山田)


3.その他
(1) 金物屋 1月31日に寸法取り済み
 ・題材を村で決定後,金物屋と打ち合わせる.

(2) 狭間は,現場で打ち合わせたいとの彫師さんの申し入れがあり,任せることにした.

4.次回打ち合わせ

 3月3日(土) 10:00〜 公民館 金具屋との打ち合わせ
 午後,たつのの彫師の工房へ移動して,現場を視察する.

2012/01/20

彫上がったイメージ part4


 天岩屋戸が開くシーンの彫り上がったイメージで色分けした下絵も,CG担当から届きました.

 夜な夜なご苦労様です.

 全ての場面に言えることなのですが,ここにある下絵の様子が,3枚重ねの元板のうちの,1枚目(奥板)と2枚目(中板)の位置に彫りこまれます.下絵のところどころにある●印や×印の位置に,3枚目(手前)の彫がとりつけられて完成になります.

2012/01/19

彫上がったイメージ part3


 次に,因幡の白兎の場面です.

 伊和族の戦いの最前線であった当地ですが,伊和大神と言えば,大国主命と同一神とされる神様で,伊和神社の祭神であります.

 ということで,大国主命にまつわる因幡の白兎の場面です.

 大国主命は,兄神達も恋焦がれた八上姫と後に結ばれる.その原因となったのが,鰐ざめに皮を剥がれて赤裸になった白兎を助けた優しさにあります.助けられた白兎こそ八上姫の化身であったのかもしれません.兎からあなたこそが八上姫と結ばれるにふさわしいと告げられるのです.

2012/01/19

彫上がったイメージ part2


 電飾兼CG担当からメールで,色分けした下絵を,あと2種類送ってきてくれました.

 與位神社ご祭神である,スサノオノミコトとクシナダ姫が並んだ,八俣大蛇田路の場面です.

2012/01/09

彫上がったイメージ


 電飾兼CG担当が,狭間の線画に対して,彫抜かれる部分と残る部分を色分けしてくれました.

 なんとなくイメージ湧きます?.

 狭間は厚さ2寸ほどの板を3枚重ねにして出来上がっていきます.3枚それぞれに彫り物を施してあります.今回のイザナギ・イザナミのように主役になるところが2枚目の板に彫りこまれます.

 このカラーイメージは,その2枚目の彫り物ということになろうかと思います.これの前後に,もう少し雲などが重なってくるかと思います.

2012/01/08

狭間の下絵到着(4)



 裏面には,伊和大神が後に等格と位置づけられ伊和神社に奉られることになった,大国主命に纏わる,「因幡の白兎」です.

 この話やったら,子供らに話して聞かせることができそうですね.

 添付は白兎神社の大国主命と白兎です.

2012/01/08

狭間の下絵到着(3)



 右(向かって左手の幕間の上)は,與位神社の祭神でもあるスサノオ尊とクシナダ姫に纏わる,「八俣大蛇退治」です.

 添付は,月岡芳年の描いたものです.

2012/01/08

狭間の下絵到着(2)


 正面が,イザナギ,イザナミで,その左(向かって右手)が,天照大神の天の岩屋戸です.

2012/01/08

狭間の下絵到着


 突然のことで驚きました.

 村の総会へ出かけて帰ろうとしていると,「新調委員会ありますよ.狭間の下絵が来ています.」と声を掛けられました.先に言うといてくれな,総会に行ってなかったらどないするん...まぁええかぁ.

 彫師の小河さん,高谷さんに感謝です.

 正面は熊野神社祭神の伊邪那美にちなんで,伊邪那岐,伊邪那美による「天瓊を以て滄海を探る(国土創生)」の場面.天浮橋から,まだ混沌とした海とも陸ともとれない世の中に,天沼矛を指してかき混ぜ,その矛先から垂れて積みあがった滴が,淤能碁呂島(おのごろじま)となり,その島に降り立ったイザナギ,イザナミの二神が,神御柱を立ててその周りを回った後に結ばれて(1回目はイザナミから声をかけたことがよくなかったと,蛭子を生み海へ流します.その蛭子が帰ってきたのがえびす神だと言われています.そして2回目は御柱を回った後にイザナギの方から声をかけて,大八洲(おおやしま)と呼ばれる日本の国土を生みます.

 この狭間の場面は,天沼矛で天浮橋からかき混ぜている場面です.


 参考までに,小林永濯による絵を添えます.

2011/12/03

狭間の場面を相談しよう


 昨日,狭間製作元の小河さんを訪ねてきました.

 この地の祭神にまつわる言い伝えなどの場面を題材にしたいという話をしていましたので,どういう言い伝えがあるかなどと,小河さんの方がどのようなお考えなのかを確認するためです.

 まず!

 先日須加の狭間が,彫師小河氏に決まったと,新聞報道がありました.中島の狭間は,小河さんのお弟子さんの高谷さんとの共同製作となるとのことです.

 それで,狭間の場面に関しては,4面分,村でしっかりと相談して決めてほしい.それが決まれば下絵に掛れるので,まずはそこを決定してほしいと言われています(場面を決めなくては,下絵も出てきません).

 ただ,少しアドバイスをいただいた内容からすると,正面に天照大神,左に(向って右)須佐之男命,右に大黒主命裏に川裾神社関連(祓戸大神四柱)などかなぁというイメージは持たれています.
 師匠の小河さんが言われているのは,「今のご時勢にあまり刀抜いたようなもんは彫とうないなぁ.」ということでした.
この点は,高欄掛け武将者を全て入れましたので,狭間は刀を抜く必要なないのではと思います.
 この地の言い伝えとして著名な,伊和大神と天日槍の藤無山での,黒蔓の蹴り合いの場面などを入れるなら,伊和大神は後に大国主命として奉られるので,右側に入ることになります.
あと川裾神社の謂れに絡む話を入れるのなら,いっそのこと(香福橋西の岩山あたりからの一望をイメージしてください)「市川を入れて,鳥居と川裾神社を入れて,與位神社を入れて,奥に淵瀬を走らせて西光寺野台地にして,この地の風景を彫ってみたらどないですか.」というお話もいただきました.

 新調委員会長さんにも伝えておきますので,早々に打合せましょう.

2011/11/16

狭間サイズの採寸


 今日徹さんから連絡があり,與位神社ならびに川裾神社の御祭神についてまとめておくようにと指示がありました.

 すでにこのページに書き込んでいる内容は,神話に基づく史実を探ろうとしたところがあり,神話通りではありませんので,神話通りの内容で簡単にまとめておきたいと思います.

 で,なんでこういう話が出たかと言うと,本日午前中に,龍野の小河さんが来られて,狭間を納める軒のサイズを測りに来られたからです.いよいよ,狭間の製作が始まります.

 狭間は,3枚の厚みのあるいた板を,奥から段々に大きくしていきながら重ねるんだそうです.そしてその1枚ずつで細工を施していくそうです.


 この狭間にも関連して,申し渡さざるを得ない話があります.

「今年,狭間がないからと行った胴突きは,来年からは,禁止とせざるをえません.」

 まず,屋台本体が,胴突きには2〜3年はもつでしょうが,以降,毎年のようにメンテナンスが必要になります.浜手ほどの費用をかけることができない当地区にとっては,対応できない出費となります.

 狭間ですが,浜手の神輿屋台ですら,胴突きでは狭間が落ちるということでした.松原のギッタンバッコンして引きずりながら担ぎあげる,あの衝撃ですら八艘飛びの義経が落ちて,舟だけになったそうです.彩色するのが,そういう破損の被害を少しでも少なくするためだそうです.

 どうかこの点,ご理解のほど,よろしくお願いいたします.

 ですから,狭間は大きく,細工が細かく,りっぱなものにしてもらいましょう.

2011/10/23

新調委員会報告


 来年の屋台完成に向けて,笹原建設への要望事項をまとめました.

 2011/11/5 10:00a.m. 公民館にて,笹原棟梁を交えた,新調委員会との意見交換会が開催されます.聴講希望の方は,公民館へお集まりください.

<申し入れ事項>
@ 屋台重量の軽量化
委員長から,なんとか200kgほど軽量してくれと,棟梁へは話をしたと報告があった.

※ 軽量化するためには,屋根の素材だけでは,金具を入れて 1.4tに納める事は無理である.それだけの軽量化には,屋台本体の木工材の薄型化や,現在固定や麻ひもを引っ張る受けに使われている鉄金具類の排除も必要になるだろう.そうなると,完成後の胴突きはご法度とせざるを得ないだろう.


A 屋根の布団形状,材質,構造の改修
2尺5寸の太鼓を入れるために,柱芯2尺7寸は最低の寸法となり(現状2尺7寸5分),おのずと必要な軒の形状と大きさは決まってしまうので,全体的な形状は現行の笹原棟梁の型板を維持する必要がある.今回のものは,型板通りの形状になっていないところがあるので,型板通りのものに作りなおさせる.
一段一段の布団形状は,もっと丸みを出すように改修する.また軽量化のために,型板を薄く削り,発泡スチロールで型を出し,表面に和紙を重ね張りして表面強度を確保する構造(曽根北ノ丁と同様の構造)への変更を申し入れていると,徹さんからの報告あり.

B梵天
正面の龍は,全面やり直し.製作元の京都松浦からは,笹原建設を通さず,直接村との定期会合を持ちながら製作を進めることで,笹原との合意もとれていると申し入れがあった旨,徹さんから報告あり.

脇の獅子はもっと胴を太くし,より立体感を出すことを申し入れる.

龍,獅子とも目にガラス玉を入れるなど,威圧感のある目に改修する(下まぶたがもりあがり,上まぶたがそっくりかえり,垂れ目になって瞳孔が開いている目には,勢いが感じられない.)

その他の金具類に関しても,松浦との直接交渉の中で要望を出して行く.

獅子も弓に沿うように装着してはどうかと言う意見もあるが,正面を弓に沿わせれば,脇は立ててメリハリをつけるものと言う意見もあり,出来上がった金具を見て調整を検討する.

C狭間は祭神や言い伝えにまつわる題材にする
スサノオにまつわる題材を4面にするか,スサノオ,イザナミノミコト,クシナダヒメ,アマノヒボコ,川裾神社縁起など,この地の言い伝えになぞらえたものを混ぜるかを検討必要.

D高欄掛け
かける位置を下げ,斜めになるように受けの形を変更する.
もっと膨らみを大きくする.人物をもっと大きくできないか申し入れてみる.

E馬力閂の装着
来年も見送る.今年特に弱かった前の左が,脇棒の反りのしなりのなさに依存するものか,同じメンバーが担いでいることによる影響か,来年もう一年様子を見て考える.いつでも付けられる.

F天幕の形状
現在天幕上での作業を考慮して,無理に平格子の形状にしている.丸い山笠型の方が見栄えはいい.
竹の方が折れてしまうことがないので,足場としては安心できる.全面的に竹で素材を作る方法がよいのではないか.

G提灯を大きく
3代目屋台の提灯が小さいと申し入れてあるのに,同じ大きさの提灯になっている.もっと縦も径も大きなサイズに変更を要望する.

H提灯吊の位置
提灯が高欄男柱の真上に来ない.穴位置は変えられないんので吊り金具の形状変更での対応を申し入れる.

I脇棒の形状
脇棒が担いでいて肩に食い込み痛いので,3代目のように,底に丸みを持たせる.
脇棒の端カンはなくてもよいもの.

J来年の完成
確かに白木の軒は,見事な出来栄えだった.もう1年見たい意見もあるが,来年の完成に向けて,金具を入れるためにも塗りが必要.

K太鼓隠し
脇棒受けの形状に依存した空間になる.須加は,本棒,脇棒の上からかぶさる脇棒受けなので,その隙間が小さい.うちの脇棒受けの形ではどうしてもその空間は大きいが,変に色の違う板をはめるよりも,太鼓の木目を魅せた方がきれいなので,現状隠す必要はないと判断される.


2011/10/26

完成への道



 屋台完成に向けて,特別サイト再会です.

 今夜は睡魔に襲われています.できるだけ早く,先日の要望事項をまとめてアップしますね.

2011/08/07

昭和11年の熊野神社の秋祭


 柳田國男50年祭に参加して,三木家の大庄屋を覗いていたときに,昭和10年,11年の祭り風景の写真をベニヤ板へ貼ったものが,片隅に置かれていました.何かのイベントの際に使われたものが残っていたようです.

 その写真の中に,中島屋台が写っているじゃないですか.ちょっと引き延ばした時の画像の粗さが目立ちますが,そのスタイルの良さは,となりの大門屋台にも引けをとらないものだと思いませんか?.

 それにしても,もうちょっと画質が良かったらなぁ..年寄り連中の言うごっつい梵天を見てみたいなぁ.

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 この昭和11年の熊野神社の祭風景写真に写る,小さな中島屋台の写真を見せて,おやじの話を聞いてみた.

 梵天は正面に獅子,脇に龍.梵天の金物の厚さが,現在の物の比にならないほど,分厚い鋳物のような銅製の梵天であった.

 高欄の縁蔓には,四面とも大きな龍が這っており,男柱も龍が這いあがっていた.

 垂木は1本1本に海老が施され,ひげが太鼓の振動で共鳴して,太鼓の響きが一段と大きく感じられた.

 正面狭間の天元一石図は記憶にある.吉備真備が打つ手を,幽霊である安部仲麻呂が,頭上の木から蜘蛛が糸につたって降りていく位置で,指示したという場面.だから木陰に幽霊がいる.(この謂れの話を,おやじは祖父の鹿松さんから聞かされていたらしい).

 二代目中島屋台を購入する前は,屋根のない枠組みだけの土台の上に,ねぶたのような作りものを施したものを,屋台代りに担いで回っていた.だから,初代の神輿屋根屋台と言うのは,その作りもの以前の話と言うことになる.

 第一次世界大戦で,祭にうかれている場合ではなく,青年団は夜学などの青年活動を活性化せよとの,警察初め権力者からの指示で,神崎郡内の屋台はこぞって売りに出されたという.残していると,非国民的扱いで,村にも影響が出る可能性があったのかもしれない(以上加西市史より).とにかく,村として早く屋台を手放してしまえという動きになり,青年団は祭をやめ,青年活動を活発化させる.

 このため,明治期の村地図に記されていた屋台蔵(防火用水跡地付近)は,青年会倶楽部の場と変わっていく.

 ちなみにその頃北条では,屋台を担ぐのも正装で,遊び心ではなく,国を愛し,神を愛するが故の祭であると理由づけして,祭の存続を貫いている.その背景もあって,北条の祭では,未だに肌を見せる事のない襦袢姿で屋台を練っている.

 これらが明治後期から大正初期の話である.

 ところが,大正9年に,鈴の森神社の落成を迎える.宵宮は,従来通り造りものの屋台を奉納したものの,東高室との話がつくやいなや,夜中の内に出かけて,本宮の朝早くに屋台を青年団が担いで帰ってきたという逸話が残っている.東高室の青年団が,手伝うそぶりで担ぎ棒にぶらさがって持ち帰れないように押え込もうとしたらしいが,中島青年団はその連中ごと担ぎあげたという.しかも峠付近で脇から木の幹が道をふさぐように倒れかかっていると,東高室の青年団をぶら下げたまま屋台を斜めに倒して担いで進み,これには恐れ入ったとばかりに東高室青年団が「中島いうとこは,なんしたえらい力しとってんや.」と観念したという話が残っている.曽根天満宮奉納の阿弥陀町南池地区で明治29年に新調され,大正7年頃に850円で東高室へ売却となり,その2年後の大正9年に,3150円の高値で中島が買い上げている.この時,牛尾の本家からもう1年待ったらさらの屋台をこうたろ(買ってやろう)という話が出たらしいが,青年団が東高室の屋台を一目見て惚れ込んでしまい,あれでないとあかんと言い張って,購入に踏み切ったらしい.この屋台購入により,屋台蔵は今の屋台蔵の道向いやや南に新しく建てられた.ただ間口が低かったので,祭時分には毎年青年団が,地面を掘って,間口を掘り下げて,屋台を出し入れした.昭和9年ごろには與位神社の落成も行われ,その時にも屋台練りが奉納されている.

 ところが,昭和初期の台風(昭和9年の室戸台風かとも思ったが,それだとこの昭和11年には屋台がなかったことになるし,おやじの記憶では,まさにこの祭の後ぐらいかと)で,屋台蔵が倒れてしまう.同時に屋台もへしゃげてしまった.しかたなく,青年倶楽部のところへ屋台の部材を運んで,牛尾の本家預かりとしていた.しかし,昭和16年(以前,昭和13年頃と書きましたが,この年だったようです)に,船津の八幡さんの県社昇格か何かの祝い事があり,屋台奉納へ出向くために,屋台の改修工事が行われることになる.当初竹かごだった布団屋根も台風でつぶれてしまっていたので,この改修の時に,茅葺屋根へと変わった.そして,八幡さんへ屋台練りを奉納している.この時の屋台蔵となった青年倶楽部はそれほど大きな建物ではなかったので,毎年井筒から上の屋根の部分を取り外してしまっていた.

 そして,第二次世界大戦へと戦況が変化し,屋台を担ぐ祭礼は自粛されることとなっていく.この時,金物類は全て取り外されて供出に出すことになった.他の村ではせいぜい梵天などの大きな飾りだけだったのに,うちの村は,供出量の多さで国に貢献したと言うところを示したかったのか,垂木の錺のような細かいものまで全て供出に出してしまった.
 終戦後,堺の金属加工所へ拾いに行っても,梵天の獅子と龍は既になかった.垂木のエビなども拾ってきたが,最初についていたものに比べて,だいぶちゃっちいものだった.

 そして,昭和59年まで,飾り金具などの姿は変わってしまったものの,屋台本体の格好の良さは留めたまま,二代目中島屋台として,愛され続けたということである.

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